カッテレンできるかな

生活者、たった1人からはじめてみるおしどりマコちゃんのカッテレンの記録です。東三河の片隅からハミガキするように社会のことを考えて、半径5mを少しずつ変えてみたいと思います。

自分の「道義」の輪郭をハッキリさせる。

どうぎ【道義】-人の行うべき正しい道。道徳のすじみち。

どうとく【道徳】-①(morality) 或る社会で、その成員の社会に対する、或いは成員相互間の行為を規制するものとして、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的なもの。

 

 

今、手元にあるじいさんから譲り受けた広辞苑(第二版補訂版←なんと!昭和53年☆)を引くと、道義・道徳はこんな感じ。

 

私たちは、毎日すっごく沢山情報を見ては、反射的に快不快の感情をもって良いとか、悪いとか、感じている。

 

その際、反応しているのは自分が生きてきた中で、いろんなものの影響を受けてぼんやり形作ってきた“自分なり”の「道義」みたいな存在だ。

 

『いや、それは人としてダメでしょう。』

 

この『人として』は、まさに“個人の内面的なもの”だから、実はしっかり机の上に並べて私の『人として』と、他者の『人として』を見比べたりしていない。

 

“一般に承認されている規範の総体”を自分なりに想定して、おそらく、平均的に、普通は、きっと、『人としてダメ』と思っているのだけど、いかんせん“内面的なもの”だから、最後まで主観を脱することは出来ない。

 

そのうえで、「わたし」は自分の中の「道義」の輪郭をハッキリさせておかなくてはいけないなと今改めて思う。

 

「わたし」が何を良しとして、何を悪しきとしているのか。

その判断に至った理由を、ふんわり「なんとなく」としてきてしまった。気がする。

 

突き詰めて丁寧に考えて自分の「道義」をハッキリさせる努力を普段から不断にすると、言動に自信と、責任が生まれる。気がする。

 

私はまだこの段階。

 

それでも一歩ずつ、丁寧に輪郭をなぞって、フムフムと確認しては暮らす。